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2025.03.04
解放新聞京都版1298号「2・11集会記事」の誤りについて
2・11集会記事の誤りについて
解放新聞京都版1298号(3月1日号)1面「2・11集会」の記事について、講師から複数の誤りを指摘されました。講演内容そのものや講演意図を取材記者が間違ってとらえた結果です。編集部による十分な確認作業もできていませんでした。正確な情報をお届けできなかったことを反省し、講師の神原弘明さん、ならびに読者の皆さんに深くお詫びします。
部落解放同盟京都府連合会のホームページで修正・加筆した記事を、下記の通り掲載します。
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生まれによる差別に反対しよう
2・11集会 部落解放運動と反天皇制
天皇誕生日の祝日を糾弾し「紀元節・日の丸・君が代」とたたかう2・11京都集会が2月11日、京都府部落解放センターでおこなわれました。同盟員や市民など60人が参加。代表世話人で京都府連の平井斉己委員長が「天皇制の強化とたたかってきた部落解放運動。この歩みを振り返り、学びたい」とあいさつしました。
主催は、天皇制の強化を許さない京都実行委員会。「部落解放運動と反天皇制」と題し、「京都の部落解放運動史」編纂(へんさん)委員の神原弘明さんが講演しました。
神原さんは京都府連の元事務局員。歴史を振り返りながら、現場での経験を中心に話をすすめました。
水平社は当初、天皇制に反対していませんでした。1927年、北原泰作が軍隊内差別撤廃を天皇に直訴しました。部落差別の解消を訴えましたが、北原が天皇制に反対であったわけではありません。
コミンテルンの32年テーゼの影響で全水でも反天皇制が議論されます。「貴族あれば賤族あり」を唱えた松本治一郎は、衆議院議員をしていた36年に、帝国議会で華族制度廃止を訴えました。当時の状況下では弾圧を受けるため、華族制度への批判にとどめました。戦後、天皇制への批判が巻き起こりました。参議院副議長となった松本が天皇の前での蟹の横ばいを拒否した事件もありました。
その後、反天皇制の動きは大衆化。71年9月、天皇裕仁が訪欧しましたが、抗議活動が起こります。75年9月の訪米後、戦争責任を問われて『言葉のあや』、原爆投下は『やむを得なかった』などと答えた天皇。この発言は人びとの怒りの火に油を注ぎます。近衛の意見を無視して戦争をやめなかった天皇は軍のトップの大元帥。指揮権がありました。戦争責任はあります。
京都府連は80年から反差別共同闘争として反天皇制集会を実施。その翌年、当時の吉田明委員長が天皇茶会に出席しました。委員長を止められなかった府連にも責任がありました。翌82年の2・11集会で吉田委員長は自己批判し、府連も学習冊子を作りました。85年4月、四条河原町での反天皇制統一行動では右翼と対峙。1時間にわたって対決し、街宣をおこないました。これが勝利の体験のとなり、その後の運動の発展につながりました。86年の円山野外音楽堂での集会で、府連や社会党、市民団体などと実行委員会を組織。京都府連では狭山闘争につぐ共同闘争となりました。この実行委員会が、現在の天皇制の強化を許さない京都実行委員会に発展しました。
その後も、京都国体や天皇代替わりなどを利用した天皇制強化に反対し、2千人、3千人規模の大集会やデモなどを繰りひろげました。
99年、広島県立世羅高校の校長が自死する事件があり、「校長を死に追いやったのは部落解放同盟」との非難が巻き起こりました。この年の全国女性集会で京都からも「広島の仲間が弾圧を受けています。全国の仲間で支えましょう」と声を上げました。現在の女性部長、新谷章恵さんが発言しました。このこともあり、4・29集会には広島高教組の委員長が訴えに来てくれました。しかし、政府は校長自死事件を利用し、「日の丸・君が代」の法制化を強行したのです。
神原さんは「大衆運動としての部落解放運動は〈生まれによる差別〉に反対することで、迷いなく大衆の心をとらえました。これからも柔軟にたたかいつづけるべきです」とまとめました。