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2025.10.03

リベレーションフェスタ2025

リベレーションフェスタ2025が10月5日、京都市役所前でおこなわれます。

このページは、人権啓発パネル展示ブースと連動して、展示の内容を掲載しています。

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リベレーションフェスタ2025 人権啓発パネル展示ブース 狭山事件―部落差別による冤罪―

ごあいさつ

 リベレーションフェスタ2025では、同実行委員会に参加するメンバーが中心となって展示を作成することになりました。今回は、「狭山事件―部落差別による冤罪―」をテーマに展示を作成しました。

 埼玉県狭山市の被差別部落出身の石川一雄さん。冤罪被害にあい、見えない手錠をかけられたまま、2025年3月11日に亡くなりました。生い立ちから事件発生、その後の裁判や再審を求める活動など、まとめました。一雄さん亡きあと、妻の早智子さんがその遺志を引き継ぎ、たたかっています。

 「部落の者ならやりかねない」という偏見での冤罪。一雄さんの人生に大きな被害をもたらします。一雄さんの「もう一度、調べ直せば、無実とわかるはず」との願いは届きませんでした。狭山事件は、再審制度の整備の必要性など、さまざまな社会的課題を提起しています。しかし、今もなお解決に至っていないのが現状です。

 展示では、京都から、石川一雄さんへの支援に取り組んできた部落解放同盟の青年たちの取り組みも紹介しています。石川一雄さんは、冤罪被害にあったものの、これに立ち向かう仲間に出会えたことへの喜びを、いつも語っていました。一雄さんも、獄友の再審無罪判決を、自分のことのように喜びました。その姿勢を引き継ぎ、私たちもすべての冤罪事件の解決を目指すものです。

 なお、「部落解放同盟京都府連合会」のホームページに特設ページを設けております。下記のQRコードで、展示の内容などが入手できますので、ご活用ください。

リベレーションフェスタ実行委員会

 人権啓発展示制作チーム

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① 子どものころの一雄さん

石川一雄さんは1939年1月、埼玉県狭山市の被差別部落に生まれる。

家は貧しかった。同じ部落の同級生も貧しく、中学を卒業する子どもは32人中、2人ほどだった。

小学1年のころに戦争は終わったが、一雄さんにはその記憶がない。

当時の周りの大人たちの会話にも戦争のことが出てこなかったようだ。

戦争すら通り過ぎる、生きるのが精いっぱいの貧しい部落だった。

小作農家の父の稼ぎでは、一日の食事をまかなうことができなかった。

主食は、じゃがいもやさつまいもだった。

兄は跡取りであるため大事にされ、学校にも通う。

一雄さんは学校には行かず、薪拾い、農作業など、家の手伝いをした。

食い扶持を得るため10歳で年季奉公に出る。

「お母ちゃんっ子だった」という一雄さん。

トラホームにかかり目の見えにくい母親をかわいそうに思い、母親のためなら何でも手伝った。

そんな子どもが親元を離れて住み込みで子守奉公に。

さみしくて、逃げ出して帰ってくることもあった。

18歳になると、奉公は終わり、会社勤めをする。

しかし、字が読めない一雄さんは、さぼっていると勘違いされ、辞めさせられる。

製菓工場に勤めたとき。

仕事ぶりが認められ、工場長になった。

日報を書く必要があったが、部下の女性に任せた。

ある日、この女性が休んだ時、前日の日報を写して提出した。

上司に呼び出され、事務員らがいる前で、字が読めないことを告白した。

恥ずかしくて、翌日から会社にはいかなくなった。

文字を奪われた一雄さん。

差別の結果の貧困が原因だった。

その後、家の近くの養豚場でも働いた。

兄の事業がうまくいきはじめ、一雄さんは兄の仕事を手伝うようになった。

一雄さんの妹によると、この頃が一番、家族一緒でたのしい時期だったと語っている。

② 狭山事件に巻き込まれる

1963年5月1日、狭山事件が起こる。

一雄さんの家の近くで、高校生が誘拐された。

警察は犯人を目前にして取り逃がした。

同様の失態が3月にもあったことで、警察への不信が募り、国会でも採り上げられた。

犯人逮捕には警察の面子がかかっていた。

事件現場近くの部落民への捜査に乗り出した。

マスコミも警察の捜査を鵜呑みにして報道、周辺住民らも犯人は部落の者、と信じた。

「部落のものならやりかねない」。

部落への偏見による見込み捜査だった。

一雄さんは5月23日、別件で逮捕される。

しかし、警察は狭山事件の犯人と決めつけて、厳しい取り調べを始める。

一雄さんは、事件の日の夜、家族と食事をしていた。

取り調べでは当然、「やっていない」と主張する。

長時間にわたる取り調べで、警察は言う。

「兄が犯人だ。身代わりになれば、10年で刑務所から出してやる」と。

こんな嘘で一雄さんを騙した。部落民の弱みにつけこみ、警察は一雄さんの自白を誘導した。

29日間におよんだ過酷な取り調べ。

事業が軌道に乗った兄のため…と警察官を信じ、〈事件の犯人〉と「ウソの自白」をした。

一雄さんは、部落差別による冤罪で犯人とされてしまった。

③ 裁判で死刑判決が出る

1964年3月11日、1審の浦和地裁では、死刑判決が出る。

死刑判決を受けた一雄さんは東京拘置所で袴田巌さんと出会う。

若い看守さんが文字を教えてくれた。

この出会いで、文字を習得した一雄さん。最初に教わったのは「無実」という文字だった。

2審、東京拘置所の獄友に真実を伝えるよう諭され、一雄さんは否認に転じる。

拘置所には、冤罪事件で死刑とされた仲間がいた。

獄友との出会いで、自分が騙されていたと気がついた。

1974年10月31日、東京高裁では、無期懲役となった。

裁判でのやり取りで、一雄さんは無罪判決を信じていた。

それだけに、この無期懲役判決には怒りと落胆があった。

全国の支援者から、手紙が届くようになる。

1977年8月9日、最高裁が上告棄却。

収監された千葉刑務所では、靴づくりや洗濯の仕事をしていた。

作業のリーダーとなることもあった。一雄さんは、まじめに働いた。

靴づくりは、奉公での経験も活きていた。

1994年12月21日、仮釈放が決まった。

一雄さんの父と母は亡くなっていた。

④ 無罪を示す決定的証拠

一雄さんは、最高裁判決の直後から、裁判のやり直しの〈再審〉を求めた。

もう一度、調べなおせばわかってもらえるはず。そう考えていた。

しかし、再審は認められていない。

3度目の再審請求のとき、当時の裁判長が検察に対し、証拠を開示するよう指示した。

これまで裁判所が証拠開示を決定したことはなく、画期的であった。

冤罪被害者たちの再審を求めるたたかいに、大きな力となった。

開示された証拠の中には、取り調べの時の録音テープ、万年筆のインクなど、重要な証拠があった。

有罪の証拠とされた万年筆。

この万年筆は被害者のものとされ、一雄さんが自宅に隠し持っていたことになっていた。

しかし、インクの成分を元素レベルで徹底的に調べたところ、被害者の万年筆ではないことが分かった。

発見の経緯も相まって、警察による捏造の可能性が極めて高い状況だ。

一雄さんを支える弁護士たちは、科学者たちの力を借り、無実を証明していった。

⑤ 部落差別にもとづく冤罪

取り調べテープには、一雄さんと警察のやり取りが残されていた。

警察官が文字の書き方を教えても正しく書けない一雄さん。

どうしても、小さい「つ」「よ」の使い方がわからない。

小学校に通っていなかった一雄さんには、わかるはずもなかった。

取り調べテープを、一雄さんは恥ずかしく思い、証拠として採り上げたくない、と思った。

しかし、弁護士が、部落差別が原因で文字を奪われたのであって、字を書けなかったことは、何も恥ずかしいことじゃない、と言ってくれた。

文字を書けなかった一雄さんが、脅迫状を書けるわけがない。

この矛盾は、判決の差別性にもつながっている。

差別の現実は、警察や検察、裁判官たちの想像を超えている。

脅迫状は、マンガ雑誌を見ながら文字を写しながら書いたことになっている。

しかし、文字の使い方がまったく分かっていなかった一雄さんには無理だ。

文字を奪われた者の身になって検証するべきだった。

裁判所は構造的な差別の存在を無視して、結論ありきの不当な有罪判決を出した。

狭山事件での冤罪は、部落差別によって引き起こされた。

⑥ 第4次再審請求がはじまる

2025年3月11日、石川一雄さんは亡くなった。

弁護士たちが裁判所に対し、インクの成分を調べた科学者からの説明を聞く場を設けるよう、訴えていた。

これが認められるかどうかの判断が出る直前、と思われていた。

〈調べれば、無実とわかる〉。一雄さんの願いが、あと一歩で届くところだった。

この日は、浦和地裁で死刑判決が出た日だった。

一雄さんは、逮捕された5月23日は毎年、つらい思いがよみがえり、涙している。

このことを、妻の早智子さんが集会に集まった支援者らを前に語っていた。

拘置所で、死刑執行に恐怖する冤罪被害者の姿も見てきた一雄さん。

コツコツと靴の音が鳴る拘置所の朝。その恐ろしさは、計り知れない。

この日が、どんなにつらい日だっただろうか。

2025年4月4日、妻の早智子さんが遺族として事件の真相究明を求め、再審の申し立てをおこなった。第4次再審請求審が始まった。

早智子さんは一雄さんの亡きあと、つらい思いをしている。

さらなる支援が必要となっている。

⑦ 京都市内からの支援

これまで、京都市内の市民らも、石川一雄さんの支援のため活動している。

被差別部落の当事者支援団体である部落解放同盟は、事件の差別性から一雄さんへの支援を全国で展開してきた。

京都市内にある各支部でも、さまざまな取り組みを実施してきた。

部落解放同盟京都府連合会青年部では、京都府内を自転車で行進。

石川一雄さんの無実を訴えるアピール活動を実施した。

京都市内の青年たちも参加した。

部落解放同盟京都市協議会では、各支部の青年部などを中心に狭山事件のついてのビラを作成、地域住民に支援を呼びかけた。

吉祥院支部では、狭山事件の模擬裁判劇をおこなうなど、事件について深く学んできた。

1977年、千本支部の子どもたちも、一雄さんの無実を信じた。

子どもの中のひとりが、囚われの身の一雄さんとの面会を果たす。

子どもたちの知る一雄さんの姿は、逮捕された時の写真の青年のままであったが、実際の一雄さんは年を取っており、「おじさん」に見えた。

写真のイメージと実際の一雄さんのギャップに驚いたそうだ。

長い時間、無実の人が拘束される。その時間を戻すことはできない。

冤罪の被害は、人から時間も幸せも奪う。国家による人権侵害だ。

⑧ 狭山との出会い

狭山事件との出会いを、部落解放同盟の京都市協議会、木下松二議長が語る。

「東三条支部で開催した狭山事件をテーマにした映画の上映会で、狭山事件のことを知った。白黒映画で、怖い印象を受けた。

町内には模造紙で作った狭山事件の問題を訴える貼り紙があったため、事件の内容はわかっていたが、映画のセリフは今でも覚えているほど、心に残るものがあった。

東京で集会があるときは、夜行の「狭山列車」に乗って駆けつける。

支部から、およそ100人が参加した。はじめて参加した全国集会には 何万人もが集まり、その熱気に驚いた。集会後にはデモがおこなわれた。デモで警察に逮捕されないか、不安だった。みんなで歌を歌い、勇気を出してデモに出発した。道路に出ると、機動隊が横についてきた。これまでになく興奮した出来事で、どうやって帰ったか覚えていないほどだ。」

今回の展示のため、京都出身の俳優で冤罪被害者の平野義幸さんが獄中で石川一雄さんの絵を描いて贈ってくれた。

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